登場人物の紹介

父=おそらく自分よりAC。見た目も性格も自分と同じ感じ。頭はキレた方に思う。出身高校では異例の生徒(ポジティブな意味で)、東京理科大の夜学に進学するも自営業を始めるため?か何かで中退。なので高卒。
母=普通の人。頭がキレるとは思わないが。人情味のある人物。高校の夜学卒。
兄弟=一卵性双生児の兄。皆は似ているとよく言うが、本人たちからすると似てるようには思わない。今、当時の写真を見ると自分でも見分けがつかないがねw

Ryo幼少期

ちょうど自分達が生まれたぐらいのタイミングで、父と母は自営業の仕事を始める。仕事は造形業って言うのかな、分かりやすく言うとディズニーランドの岩を作るようなお仕事。
そんなわけで、父と母は小さな工場みたいなところを借りて汗水たらして働き始める。自分と兄弟はそこらにあるものを使って遊びまくる。自分が思うに自分のAC性のルーツ。
思い出としては小学校入る前ぐらいに溶接で鉄のイスを作ったことかな。たしか父が教えてくれたんだ。よく覚えてない。
後日談としては経済的には相当きつかったらしい。さいふの中に数円しかなくなった時もあったという話。

Ryo幼稚園生〜小学校2年まで

いつのまにか父の知り合いに借りた平屋に住んでいた。いつ引っ越したのかは覚えてない。とにかくまだ和光市民。
最初のころは今まで通り工場でキャッキャいいながら遊んでたが、工場も遠いので家の近所で友達と遊び始める。
スポーツは別段やってなかったけど足はそこそこ速かったような気がする、そんな普通のガキ。

引っ越し

工場の土地の所有者が変わることで、いろいろとあって、引っ越し先で作業場を作ってやっていこうという話になる。
人生初の引越し。引っ越す先は同じ埼玉だが車で2時間はかかる吉見町。
大人にとってはただの引越しだが、子供にとっては学校を移るという一大イベント。親しかった友達たちともお別れ(´・ω・`)/~~

小学校2年生〜6年生

引っ越した先で当初はちょっとしたいじめにも会ったが、すぐに打ち解けて新しい友達たちと遊び始める。が、皆スポーツ少年団とかをやっている中、自分は何もやっていなかったので土日に遊ぶ相手がいなくて寂しかったのを覚えてる。
好きなスポーツはサッカー。というのも仲のいい友達皆がサッカーをやっていたのだ。
今考えると結構退屈な時間の多かった小学生だったなぁ。無駄多し。

記憶喪失-ACになったきっかけ2?-

工業団地にあった土手みたいなところをチャリンコで登っていたらチャリごとバク転して石に頭をぶつける。
気づいたら病室のベッド。
頭をぶつけた自分は血を流しながら大人に助けを求めにいって病院に行ったらしいのだが今でもまったくその時の記憶がない。

後で母に聞いてみると、自分はちゃんと意識を取り戻すまで、意味不明のうわ言を言っていたらしく、本格的に頭が逝ってしまったのかと家族は心配したらしい。
感電をした事はない自分であるが、この出来事がACになるキッカケだったのかもしれないように思う。

変な父

  • 小学校低学年の時に数万もする子供向け百科事典を揃える。ある意味英才教育。
  • ギターをやれといって日々練習を無理やりやらされそうになる(結局さぼってたらなぁなぁで無くなった)。
  • 勉強なんかしなくていいから外で遊べと言う。その割には夏休みには算数ドリルとかをやらされたりPCで日記を毎日つけさせられた。
  • 仕事先の飲み会か何かでキャバクラとかに連れて行かれる。キャバクラのお姉さんがくれた高級アイスクリームが忘れられない。
  • いきなり金髪になったり、スキンヘッドになったりする。
  • 帰宅するとPCばかりいじってた父。多分プログラミングとかアーキテクチャの話を除けば今の自分よりずっと詳しいはず。
  • 急にスノボーにはまりだし、毎週家族でスキー場に行く時期があった。
  • 知り合いの所でやったリッジレーサにはまって、いままで頑なに拒んできたゲーム機を自分で買ってきたりした。

初めてのPCとの出会い。

話は戻って小学校3年生ぐらいの時、父が何を思ったか数十万も出してFM Townsを買ってきた(もうよく覚えていないがTownsは確かMS-DOSから変なOSが立ち上がっていた気がする)。父曰くこれからはPCの時代だと思ったらしい。
父はPCを買ってきた日から小学生の自分と兄弟にスパルタで夜な夜なローマ字とタッチタイピングを教えた(勝負して勝った方に100円とかいうゲームをやった気がする。策士だ)。泣きながらやった。どんな家族だウチは。ま、今考えたら感謝しているけどね。
かくして、小学校3年生の自分はものすごい速さでタイピングできるようになった。ちなみに多分今よりずっとずっと早かったと思う。アルファベットのAからZまでを一瞬で打てたし。
PCを使えるようになった自分は興味津々でバッチファイルプログラミングとかをやりはじめた。懐かしい。ただ、残念ながらC言語やBasicのようなちゃんとした言語には出会わなかった。惜しいことしたなぁ。


そんなこんなで将来プログラマになると人生を決めたRyoであった。

中学校生活-部活-

プログラマになるつもりではいたが、小学校後半でさほどPCをいじっていたわけでもなかったので、部活は普通に運動をしようと思っていた。で、友達が皆やっていたサッカーを始める。
小学生の時は今からは想像できないほどポチャッとしていた自分であったが、部活開始3ヶ月ぐらいでスリムに。親もびっくり。
その後も部活漬けの生活は続き、休みという休みもなく連日ハードな練習が続いた。正直辛かった。が、さらに辛かったのはレギュラーになれなかった事。スポーツ少年団とかでサッカーをやっていなかった自分がそう簡単に経験者たちに敵うわけもなく3年間が過ぎていった。負けず嫌いの自分には辛すぎる時間であった。多分今までの人生で一番辛かった時期を挙げなさいっていわれたら間違いなく中学校生活を挙げると思う(入試とかよりももっと)。

中学校生活-部活以外の学校生活-

勉強は、最初は上の下ぐらい、3年生になって進研ゼミを始めてからはほぼトップになった(一回だけ本当のトップをとったのが自慢σ(`・・´ ) )。たぶん人生の中で相対的もに一番頭がよかった時期。
休み時間とかはバカな事ばっかりやってた記憶しかないが、特にやる事のない時は図書館で借りた本を読んでいた。ホームズ全巻とか、宝島とか、はだしのゲンとか、〜の歴史シリーズだとか。今考えると不思議。
恋愛はもちろん無かったよヘ(゚∀゚ヘ)アヒャ

中学校生活-学校以外-

帰って、飯食って、寝る。そんなにPCはいじってなかった。
当時はまっていた遊びはマジックザギャザリング。なんかインテリっぽい遊びで好きだったなぁ。大人にまじって大会とかにも参加したし、雑誌もすりきれるぐらい読んだな。そいえば海外のサイトをわざわざ見つけてきて世界大会で優勝したデッキとかを作ってニヤニヤしてたわ。

びっくり

高校入試のちょっと前に父は元受の会社を辞めていた(自営業だけどそちらに雇われてるような勤務形態になってたのだ)。そんなわけでウチの経済状況はつらくなりましたとさ。

高校決め

そこそこ勉強すれば学区のどこにでも行ける気はしていたが(調子のりすぎました(-人-;)(;-人-)ゴメン )、トップ校は男子校=無理、その次は最寄り駅から遠い=だるい
というわけでどこにしよーかなーと思ってたら、国立高校があるじゃないか!!キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!! 。かっけー。総合学科とかいう怪しい仕組みでプログラミングも勉強できるし。即決定。
要は国立という響きだけで高校を決めましたよ僕は。

父が・・・・

戻ってきません。連絡はつくので死んでることはないですが。もう会わないまま3年がたちました。あらら(* ^ー゚) 。
というわけで、実質母子家庭のようになってしまいました。か、金が・・・・。

高校時代-部活-

まずはプログラミング部を探したのだが、工芸部という怪しげな部しかなかった。雰囲気としてはプログラミングをしないW-Dという感じ。入ってもあまり得をしなそうだったので断念。
で、次にやろうと思ったのがテニス。兄弟は中学で軟式テニスをやっていてたまにいっしょに打っていたのでコツは分かる。サッカーはもういいやと思っていた自分はテニスを選んだ。
でやり始めたらめちゃめちゃ面白いの。これが。というわけで、高校生活前半のほとんどのエネルギーを注いでテニスをする。

高校時代-部活以外の学生生活-

メインは中学校の時と変わらず部活だったわけだが、他の説明もせねば。
授業内容は総合学科ということで、ブタの世話したり、旋盤の使い方を習ったり、英語やら数学とかの普通科目を勉強したり。いろいろと生きる術を学んだ3年間だった。
ちなみにウチの高校は国立というのは名ばかりで、進学校ではなかった。とうわけで成績ではずっとトップを張れた。ワーイヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノワーイと思うとみせかけて、ウチの高校でトップでもしょうがねぇじゃんという感じだった(´・ω・`)。

進路を考える

ウチの高校の進路ははほとんど専門学校とかに進学して(就職もほんの少しいる)、他の少数が大学に行くという感じ。
そんな中、毎年数名はAC入試で筑波大学へ言っていた。そんなノウハウがウチの高校にはあったわけ。で、自分もそれしかない!!と思ってAC入試を受けることに決める(前から頭にはあったわけですが)。駄目だったら推薦と一般入試をダメ元で受けて、それでも駄目なら新聞配達でもしつつ予備校に通うべ!!

と心を決めた2年生の冬であった。

研究

以前から興味のあったP2Pとかグリッドを調べて、ひたすらかたかた。VBでカタカタ。今考えるとVBとかオワットルと思うけどひたすらカタカタ。受験勉強もそっちのけでひたすらカタカタ。
と頑張ったら、なんかそれなりにすごそうな物が出来上がった。ヽ(゚д゚)ノ ええじゃないか。

AC入試

を受けた。最初は自信がなかったが、一次通った後は倍率が1倍ぐらいになったので安心。実際面接もよく出来て、終わった後、高校の先生に「こりゃ受かりましたよ」とか言ってた。

合格

合格キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!! 。逆転サヨナラホームラーン( ´O)η。
普通に勉強してたらせいぜい中堅私立ぐらいだった自分にこの結果は素晴らしすぎる。10月過ぎから好きな事できるし(・∀・)ニヤニヤ。

JSEC

AC入試を受ける前に先生の薦めで論文を提出していたJSECの審査が合格決定後にあった。
ダイヤモンドの焼成がなんちゃらとかすごそうなんばっかりが回りにいて、どうせダメだと思って、最後の受賞者発表とか寝てたら、なんと3位にあたる章をとってしまったΣ(`_´;)。
ちなみに、もらった30万は入学金に使いましたよ。ちょうどお金がなくて悩んでいる時だったので助かった( ´ー`)フゥー...。

チャイニーとの出会い

JSECっていう賞は朝日新聞が協賛だったので、受賞の記事が朝日新聞に載った。そしたら、チャイニーの先生がこんな人がいるんだってーって話をチャイニーしたらしく、それを聞いたチャイニーはもしかしてこいつも筑波に来るんじゃね?と思ってメールをしてきた。
かくしてチャイニーと自分は大学に入る前に出会いましたとさ。

今の彼女とのなれそめ

話は変わりましてこんなお話。物語り仕立てで書いてみる。
筑坂にはヒョコヒョコと歩く、小柄の女の子がいました。僕はその子が少し気になってはいたのですが、ずっと別のクラスで一度も喋ったことすらありませんでした。そんなわけで、自分と彼女の間に何の関係も生まれないまま3年間の高校生活が終わっていくかのだろうと思っていました。が、卒業式の少し前、課題研究の発表会(ACに出した内容を発表したのですが)が終わった後、男友達と談笑していると、なんと一度も話していないその子が素敵なチョコをくれました。そうその日はバレンタインデーだったのです(正確には何日前か後ですが)。それをもらった僕は気が動転して"マジで?マジで?"とバカのように心の中で叫んでおりました。
家に帰った僕は家族にニヤニヤしながら自慢をして大事にそのチョコを食べました。人生初の本命チョコです。その時僕は考えました"ってか、両思いなんじゃね?"と。その考えは、どうせ筑波に行ってしまうんだから付き合ったとしてもいっしょにいられる時間はわずかだし、遠距離なんて無理だろと思ってあきらめていた自分に、一握りの勇気を与えました。そして、数日後の卒業生を送る会、ベタな企画ではありますが未成年の主張というものが行われました。"ここしかない"と僕は思いました。大きく手を上げて壇上に上がり彼女を壇上に呼びつけました。そして、"付き合って下さいと"一言いいました。すると、"お願いします"という言葉が聞こえてくるではありませんか。アンビリーバボです。
筑坂恒例のこの企画で告白した人の中での初成功だったそうです。同じクラスの仲間達は胴上げをしてくれました。落とされました。痛かったです。
チャンチャン。


んで付き合い始めて今に至ると。いやぁ懐かしいなぁ。あと2ヶ月で丸2年かぁ。今後ともよろしく。
いろいろあって、今は別々の道を歩んでおります。
復縁して、結局、結婚しました。

大学に入学

した後は皆さんご存知の通り。母が大病を患った事を除けば。今はほぼ完治したけどいつ再発すると限らないのでちと心配。でもそんな母がパートで家計を支えてる。ウワァァ━━━━━。゚(゚´Д`゚)゚。━━━━━ン!!!! 。
そんなわけで自分も頑張らなくてはと思うわけですね。

失うもの

があると人間は行動を起こしにくくなる。これは間違いない。そして堀江社長曰く、失敗をしても0になるだけ。自分の場合を考えてみると筑波大学に入学した事ぐらいしか失うことはない。元から0みたいなもん。ならいいじゃん。恐れるな俺。

おわりに(Ryoの今までの歩み)

(カテゴリ指定で飛んできた方は、時系列順に記事が並ぶために、投稿した順番と逆に表示されているので、古い記事の頭まで移動してから順に読んでいってください)
 
・暇つぶしにしては頑張りすぎた・・・・・・・